奈良の南部と東部、歴史と壮大な自然が息づく奥大和で初めて開催されたMIND TRAIL。COVID-19の影響を受け自粛されていた県をまたぐ移動も、経済活動の立て直しとともにすこしずつではあるが受け入れられてきた。多くのイベントや展覧会が中止や延期を余儀なくされるなか、MIND TRAILは奈良の広大な地域を舞台とすることにより三密を避け、久しぶりのアートイベントとして開催された。吉野、天川、曽爾の3エリアが会場となっており、それぞれ約5時間ずつのハイキングをして巡る。「心のなかの美術館」と副題がつけられたこの芸術祭は、一体どのような体験をもたらしてくれるのだろうか。ここには、吉野と天川での体験を以下に記録したい。
まずは、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である「大峯奥駈道」の起点となる吉野。スタート地点であるハイキングコースのふもと、下千本駐車場で降車した。地元の店先に貼られたポスターが目印。メインヴィジュアルは、禅のプラクティスではじまりを意味する”円相”がモチーフとなっている。
スタート地点では、菊池宏子+林敬庸の《千本のひげ根》が出迎える。吉野林業地帯の一部を構成している吉野町は、吉野材の集散地として発達し、全国に銘木吉野材を供給してきた。これは、奥大和のヒノキの間伐材の枝をアーティストが1本ずつ丁寧に磨いてつくった1000本の杖。これから旅路に出る人々が持ち出すことができ、最終的にはゴールでもあるこの場所に戻すもの。
町域の一部は吉野熊野国立公園、吉野川・津風呂県立自然公園に指定されており、春には3万本のシロヤマザクラが咲き乱れる。地図の”下千本”や”上千本”は、文字通りサクラの本数に由来し、日本を代表する桜の名所として知られている。
ロープウェイの吉野山駅に着くと、バス停のような看板が目につく。ポエトリーコレクティブのoblaatが、地域に伝わる伝承などを基に書き下ろした詩を聴きながら巡回する、体験型の作品《distance》だ。QRコードを読み取ると詩の朗読音声が始まり、参加者はその場に立ち止まって、もしくは歩きながら、土地の歴史に想いを巡らせる。
歩みを進めると、二階建ての古民家がまるごと使われた作品、中崎透の≪色眼鏡でみる風景≫に出会う。色とりどりのカラーグラスでできた構造物が配置されている。言葉やイメージといった共通認識の中に生じるズレをテーマにこれまで作品を発表してきた中崎氏。蛍光灯と日光の光がそれぞれ影響し合い、部屋の内側から、外側から、いずれもいつもと違う景色を見せてくれる。
こちらは谷川俊太郎の作品。壁に据えられた木板に、内照のピクセルで構成されたひらがなが一文字ずつゆっくりとあらわれ、詩が詠まれていく。
土産物屋の看板犬もぐっすりお昼寝。この日は絶好のハイキング日和で、朝から人出も多かった。
中でもにぎわっていたのが、金剛峯寺蔵王堂だ。7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役行者が開創した、蔵王権現を本尊とする歴史的な寺院だ。
この日は日本最大秘仏本尊の特別ご開帳の時期であり、これを目当てに訪れる地元の方や修学旅行生で列ができていた。境内や別室にもアート作品展示があり、イベントを知らずに作品に出合えた人も多いだろう。
折り返し地点までには、ゆるやかな坂をひたすら登っていく。しかしながら、途中には多くの神社や寺があり、その場所の作品展示を見るためには坂や階段を上ったり下りたり、足腰に心地よい疲労感を感じさせるコースだ。
急な坂道をのぼった高台にあらわれたのは、井口晄太≪吉野の時計≫。日時計のような黒くて大きな石板に、訪れた人たちが観光名所の壁のように書き込みをしていく。奈良で生まれた感情の”瞬間の採集と集積”がテーマで、会場各所から専用のウェブサイトにアクセスして参加ができる。
階段の上り下りに呼吸があがる場面もあるが、ふと足元から視線を上げると、壮大な山々に感動する。日常生活で、いかに狭いスケールで視界を固定していたかに気づいたりもする。
折り返し地点である花矢倉展望台まで訪れると、紅葉を心待ちにする山々の景色に嬉しいため息が出る。疲れた足腰を休める東屋のなかに鎮座した不思議な装置は、毛原大輝の≪TELEPHONO TRAIL≫だ。この場所で発せられた人々の声が、この機械を通して音として収集され、微弱なラジオ電波を通じて生放送される。
遠隔通話アプリを利用して、この装置に収集された音がリアルタイムで放送されている。MIND TRAILに行けない場合でも運がよければ、話しかけてくる参加者の声を聴くことができる。
近くにあるのは重要文化財にも指定される美しい吉野水分神社。ここに静かに佇むのは、上野千蔵の≪水面 -minamo-≫だ。ここは、水の分配を司る天之水分大神を主祭神としており、水配りの読み方「みくまり」が「みこもり」「こもり」としだいに変化して、子守宮とも称される子宝の神としても信仰されているそう。
作品をスタンプラリーのように探しながら歩くうち、いつの間にか高台に到達する。見下ろす山景色はすこしずつ色づき始めており、適度にかいた汗を風が心地よく乾かす。
奈良を訪れた人がさまざまな場所で生じた感情を、場所と時間をプロットして記録する井口 皓太≪吉野の時計≫は、さまざまな地点で展開されている。
途中にあった黒い時計盤以外のあらゆる地点にQRコードがあり、その時その場所での感動を専用のウェブサイトに刻み込んでいけるのだ。MIND TRAILに参加した人たちの思い出が世界中に共有される。
林の中に入っていくと、過去の台風で木が折れ平になった土地に≪力石咲のワイルドライフ≫の作品群があらわれる。COVID-19禍に山で暮らすことを想像し、さまざまなアプローチで生活に必要なものを考案している。これは、年輪ごとに木を剥いだ素材でできたスーツで、枝や獣から身を守るため、オーバーサイズでソーシャルディスタンスも自然と保てるそうだ。
ニットアーティストである力石咲氏ならではのチャーミングなアイデアが、森の中に幻想的でユーモラスな生活空間を生み出していた。山のポストにもAmazonから郵便物が届く。
湿った土を踏みながら進んでいくと不意にあらわれる可愛らしい鹿は、木村充伯≪鹿が見てる≫。木を削り出してつくられており、心地よい違和感で自然に溶け込む。毛羽立ちやすいよう設計した木製パネルによるシリーズを展開し、動物や人の毛を表現する木村氏は、今回は奈良の象徴である鹿を題材にした。
前日に降った雨の影響もあり、ぬかるんだ坂道は大人でも難関。特に危険な箇所には「足元注意」との注意喚起がされている。
折り返し地点からは《千本のひげ根》から持ってきた杖が険しい山路を助ける相棒として活躍し、無事下山することができた。昔の修行者たちも杖を持って一歩一歩踏みしめながら歩いていたのだろう。
吉野から車を1時間ほど走らせて、次は天川エリアへ。ここは、高い山と深い谷によって形成されており、古くは人々が定住するに至らなかった土地。”天の川”という名称から聖域とされ、修行者たちの「行場」が開かれたそうだ。 現在、駐車場には、大きなタンクを持って水を汲みに来る人たちが。天川では天然水を持ち帰ることができるため、休日には地元の人が多く集まる。
スタート地点から坂を登りつづけ、母公堂までたどり着いた先にあらわれたのは、細井美裕のサウンドインスタレーション《Erode》。はじめはスピーカーから川の音が聴こえ、歩みを進めるにつれ本物の川の音のみが聴こえる。生活の中で聞こえなくなっていた音を認識し、意識的に聴こえるようにする作品だ。細井が天川を視察した際に、この場所にある音の豊かさに気がついたことがきっかけとのこと。
一旦森が開けると、息をのむほど美しい川があらわれる。ここは、約1300年前の役行者による大峯開山以来、世界遺産の一部「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」の麓で山岳修験道の根本道場として栄え、今も山岳修行者たちの聖域とされている。
森の中はまるでおとぎ話のように美しい。吉野とはまた違うしっとりとした雰囲気を漂わせる。
すっくと背の高い杉がたちならぶ中、神聖に、美しく鎮座する佐野文彦の《関係-気配》。建築、インテリア、プロダクト、アートワークなど、国内外で領域横断的な活動を続ける佐野氏は、この森に古くからあったであろう石を、歴史の記録する媒体、時間の象徴と捉えた。石には直接手を加えず、石を囲むまわりの環境だけをつくることで、空間と鑑賞者の関係性を変容させる。奈良県出身の佐野氏をはじめ、MIND TRAILには、この土地にゆかりのある作家も多く参加している。
透き通ったエメラルド色の川水と神秘的な洞窟。天川でしか目にできない景色だろう。ここは、弘法大師空海との関わりも深く、大峯山で修行したのち、高野山へ至ったその道程には、空海にまつわる多くの史跡・伝承が今も残されている。
山道には、作品が展示されていない場所での気づきが絶えず、壮大な自然資産に驚かされてばかり。次の作品に出会うまでに1時間ほどかかるものもあるが、途中の旅路も飽きることがない。
今回展示された作品ではなくずっと昔に建てられてた看板にも、私たちの思考を改めて促すキーワードが散らばっている。
やっとたどり着いた山の頂には、菊池宏子+林敬庸《ダラニスケ研究室》と題された小屋がたたずむ。
ダラニスケは、天川村で製造されている日本古来の民間薬「陀羅尼助丸」のことである。ここは、奈良や和歌山に製造所があり家庭で馴染みのある人も多い「陀羅尼助丸」について、地元でのインタビューや調査をもとに研究した結果をまとめたアートプロジェクトだ。
さらに天川エリアの最頂上地点となる大原山展望台には、巨大なレーザー装置が据え付けられていた。齋藤精一氏の作品≪JIKU #008 TENKAWA≫が、点灯を前に遠くの山峰を見つめている。
天川エリアのオープニングには、毎年恒例の「えんがわ音楽祭」の開催日が選ばれた。感染対策の上、地元の方々も次々と集まる。
山を下ると、ちょうど日も暮れ、オープニングセレモニーが始まった。プロデューサーであるライゾマティクスの齋藤精一氏をはじめ、キュレータ―や出展アーティストが挨拶を行い、一人ずつ作品への想いや地元の方の協力への感謝を伝える。
商業施設やオフィスビルがなく空気が澄んだ天川は、日が落ちると真っ暗になり、星の観察スポットとしても知られている。セレモニーの最後に大原山展望台にあったレーザーが点灯し、≪JIKU #008 TENKAWA≫が点灯。吉野から熊野へ向けた光線は、会期終了まで毎晩、芸術祭の開催を街じゅうに知らせ、力強くて優しい意志や希望を星空にしるす。
実は、MIND TRAILでは、「森の中の図書館」というプログラムも開催されていた。コース内のさまざまな場所に設置されたポストには、 出展アーティストをはじめとした参加者が芸術祭のコンセプトに合わせて選んだ本が入っている。選んだ理由が書かれたカードとともに、合間に読むことができる。
天川のポストには、齋藤精一氏が選書した『ぼくを探しに』(シェル・シルヴァスタイン作)が入っていた。同封のメッセージカードに記された選書理由には、「この物語はMIND TRAILの元になっています。効率化を求める現代に、歪だからこそ気付きのある人生が送れると思います。そんな気持ちで心の中に美術館を見つけてみて下さい」とある。
COVID-19の影響もあり自宅に籠る生活の中、不自然な環境で漠然とした不安におそわれ孤独と初めて向き合った人も多いだろう。インプットされる情報はインターネットやSNSから流入するものに偏り、いつの間にか自分の存在意義を見失ってしまう事態も他人事ではない。
そんな中、筆者も時間をつくり1人で目的なく夜の散歩に出かけてみたことがあるが、見上げることさえ忘れていた月の明かりの頼もしさや、吹く風の優しさに気づけたりして、自粛の反動で解像度が高まり、外の美しい世界に驚いたことがあった。
アートは、時代に警鐘を鳴らすカナリア、自分や社会をうつし出す鏡と言われることも多いように、感性を高め気づきを促してくれる装置だと思う。しかしながら、感染対策により美術館やアートイベントも触れる機会が減ってしまった。
MIND TRAILは、吉野や天川の豊かな自然を舞台とすることでアートに触れる機会を復活させた新しいイベントの形だ。ハイキングコースで作品を探し出会うという楽しいミッションを通して、大きすぎる外の世界を自分の足でひたすら”歩く”。すると、自然や歴史の偉大さに反比例するように、自分の小ささを認識し、心がすこし軽くなる。
この半年間は、県境という行政上の境界に隔てラベリングされ、移動を拒む一方で観光経済の停滞を悩んだり、地元の人にとっても大変な期間だったはず。アーティストにとっても、表現の場がなく自分の内に溜まったエネルギーが爆発しそうだったことだろう。このイベントは、さまざまな立場の人に希望の光を差し込んだ、課題解決の形でもあったと言える。
誰もが身体を使いながら自然に触れ五感を研ぎ澄ませることで、多忙な都市生活で摩耗していた感情に気づき、溜まった澱みを自認して肯定するきっかけになる。MIND TRAILは、”心のなかの美術館”というように、今までのアートイベントとも芸術祭ともすこし違う、心のかけらを探す旅のような体験だった。
MIND TRAIL(10.18.2020|Tokyo)
会期:2020年10月3日(土)~11月15日(日)
会場:奈良県 吉野町、天川村、曽爾村
入場料:無料
主催:奥大和地域誘客促進事業実行委員会、奈良県
協力:株式会社ヤマップ
プロデューサー:齋藤精一(ライゾマティクス・アーキテクチャー代表)
キュレーター:林曉甫(特定非営利活動法人 インビジブル 理事長)
参加アーティスト:井口皓太、上野千蔵、oblaat(覚和歌子、カニエ・ナハ、谷川俊太郎、永方佑樹、則武弥、松田朋春)、菊池宏子+林敬庸、木村充伯、毛原大樹、齋藤精一、佐野文彦、力石咲、中﨑透、ニシジマ・アツシ、細井美裕 ほか
〈Instagram〉
Photo: TETSUTARO SAIJO
Text: REIKO ITABASHI