静かな他者の息づかいを都市で感じる
COVID-19 の出現をはじめ、最高気温41度超えなど……。現代では稀に見る異常気象や未曽有の危機に見舞われ、混乱を極めている2020年。今こそ改めて自然と向き合い、地球というゆりかごのなかで、他のあらゆる生命や現象と共生していく方法を再考すべきではないだろうか。今回は都市生活に存在する自然に着目し、「Tanicussion®︎」などを手がけプランツディレクターとしても活躍する鎌田美希子(以下、鎌田)、アーティストの渡邊慎二郎氏(以下、渡邊)に、植物と人類の関係性について、実体験に基づく振り返りから考察してもらった。異なるアプローチで植物と向き合う2人のアーティストの対談により、現代らしい"他者との付き合い方"を探りたい。
植物との出会い、表現の動機
——お2人とも植物を用いた表現活動をされています。植物との出会いや活動のきっかけを教えてください。
鎌田:私の実家は東北で、小さい頃から植物が異様に好きで、ずっと山の中や自然の中で遊ぶ日々を送っていたので、何も考えずに農学部に進学してダイズの遺伝子の研究をしていました。大学時代までは当たり前に自然好きな人々に囲まれた環境にいたので、東京で社会に出て初めて、誰も植物に興味がない現実を目の当たりにして、驚いたんです。都市にはあまりに自然環境が少ないし、愛着を持っている人も少ない……。それがなぜなのかという個人的な疑問を追及するために、まずは都市生活の中に植物を増やしたり、植物の良さを知ってもらうための活動を始めてみました。最初は植物を飾るための知識を学ぶ学校に通って、社内に観葉植物を置いたり庭に植物を植える仕事をフリーランスで始めて、その中で抱えた問題意識から「Tanicushion®︎」という多肉植物を室内に飾るためのプロダクトをつくったりもしました。
渡邊:僕は大学では、”モノを並べることで見出される言語的な関係性”に着目しました。そして日常に存在するオブジェクトを並べているうちに、「生活」というテーマに寄り添った作品をつくるようになりました。例えば、おばあちゃんの世代が集めていたものを収集し並べて、”既視感”を模索するようなアプローチの作品です。実はその作品をつくる過程でインテリアとして植物を置いたのですが、展示中に植物が太陽の方角にどんどん伸びていって、次第にバランスが崩れて、最終的には花瓶ごと落ちて割れたんです! その経験が、身近に”ヒト以外の他者”が居たんだという気づきをくれました。私たちの日常、生活環境の中にも、植物という人間以外の生き物がいることに向き合えていなかった自分に驚きました。それが、植物を作品に使い始めたきっかけですね。
鎌田:分かる! 植物を使った展示の途中で勝手に様子が変わっていくのは、あるあるだよね(笑)
鎌田美希子/Mikiko KAMATA|ロッカクケイLLC.代表/プランツディレクター。北海道大学大学院農学研究科を修了。 生命科学のバックグラウンドからメーカーにて植物系の開発職を経て、アカデミックな側面を生かしプランツディレクターとしての活動を開始。 2015年に室内緑化ツールとして、多肉植物の魅力を再現したクッション「Tanicushion®」とクッションで祝い花を表現した「Iwai-bana」を発表。 現在は空間を緑化することの重要性を研究するため、千葉大学大学院園芸学研究科博士課程にて「植物とヒトの関係性」の再構築を目指し研究中。検証の一環である表現活動を継続的に行っている。植物の効果を体験する場「Calming Plants Salon」を計画中。
鎌田:私がプランツディレクターとして活動し始めた頃は「自分が大好きな植物のことを、みんなも好きになってほしい」といった感じで、良い意味でひとりよがりで自分本位なアプローチだったんだけど、2019年からアーティストとしての活動を始めて、最近は考え方が変わってきました。都市環境のように「人間が人間のためだけに作った場所」に対して、ある種のアンチテーゼ的な考え方を持って発信しています。展示を通して世の中に伝えたいこととして「都市空間はこのままじゃいけない」というメッセージ性が出てきたので、より深く勉強するためにまた大学に戻って研究も始めました。先日8月に開催した展示のタイトルは「(in)visible forest」つまり「目に見えない自然」という意味で、私たちの身近にも見えない生態系の中で自分の役割を持った生物たちがいて、いつもは都市生活の中で意識の外にいる彼らにスポットを当てたいという気持ちを込めました。地元の東北では当然に存在していた自然の循環が、都市だと歪み抜け落ちていて、人間はそれに気づかずに過ごしている。でも、人間はそもそも地球の中のいち構成要素でしかないから、それを意識することで、生き方、暮らし方、考え方が良い方向に変わっていくだろうと思います。
生活の中に静かな他者を認知する
——”植物という静かな他者の存在に対する意識を顕在化したい”というのは共通していますね。どのようなアプローチで作品をつくっていますか。
鎌田:自分の作品に共通するアプローチとしては、誰もが何か気づきを持ち帰れるような、「見る」だけじゃない特別な体験をして欲しいと思ってつくっています。記憶に残してもらうためには、異質な環境や体験が大事だと思っていて、今回の「(in)visible forest」では、鑑賞者にお花を持ってきて「コンポスト(堆肥に変える装置)」に入れてもらう参加型の作品(flower compost)として設えて、会期中に来場してくださった方と更新し続けました。
——前回の展示「OFFICE UTOPIA」も強烈な空間体験でしたよね。
鎌田:2019年の11月に開催した初めての展示は、オフィスチェアやスチールワゴンが荒れた感じで置かれ、実際に企業がオフィスとして使っていた元・執務スペースに、植物を理想的すぎるスケールで配置して、床には落ち葉を敷き詰めて、その空間には農業用資材の加湿器を使って湿度を高めました。中に入って異空間を感じてもらえるように、冷蔵倉庫なんかに使われるような厚手のビニールカーテンまで用意しました(笑)ただ、二度の展示どちらについても私自身は何も手を加えてない。植物や微生物の見えない力が働いて、会期中の変化や驚きを体験させてくれるだけ。そんな見えないパワーの動きは都市の日常でも起きているけれど、最近の人は無関心すぎるから気づいてもらいたい。そんなモチベーションだから、私はアーティストというよりアクティビスト的な立ち位置なのかもしれません。
——一方、渡邊さんのスタンスは、植物という相手と対等に向き合っているような印象を受けました。
渡邊:そうですね。逆に、僕は自分のためにつくっています。学生時代の展示をきっかけに植物という他者の存在に気づいてから、彼らとコミュニケーションをとってみたいと思ったんですよね。そこで、まずは人間同士のコミュニケーションとは何かということを分析してみたら、それは「相手から言葉を受けて、それを自分の経験と混ぜながら相手に感情移入を行う」という一方通行の行為の繰り返しなのではないかと。僕は、自分以外は全員他者で、究極的には完全に誰かと分かり合うことは不可能だと思っているんですが、一方通行でも相互理解を試み続けることこそが素晴らしいと考えています。だから、それを植物相手で置き換えてみると、僕たち人間が空気を介して声で会話するように、植物との間では、水をあげたり触れることによって花の色や葉っぱの形が変わって、元気なのか落ち込んでいるのか、表情として返事をもらえます。そうやって毎日手入れをしながら感情移入を絶やさず彼らの声に耳を傾けるというアプローチが、最近の作品の考え方の源になっています。例えば、植物を触ると音がなる装置をつくってライブパフォーマンスをした2017年の「植物に水をやる」という作品も、僕なりのコミュニケーションを形にしたものですね。
人間の中にある植物性に気づく
——植物に感情移入を絶やさないという感覚が印象的です。何か実体験に基づいているんでしょうか。
渡邊:修了制作で、自分の不眠症の経験をもとに作品をつくったことがあります。自宅の和室で眠れない夜に、自然と天井の木目に目がいって、住宅の内装の木目はいわば植物という死んだ生き物の断面が露出されている状態なのに、それを人間が違和感なく受け入れているのが不思議だと思ったんです。それは人間の中にも植物と似たものがあるからなんじゃないかと想像して解剖学を調べ始めたら、研究者の三木成夫氏が、感覚をつかさどる脳が「動物的」、吸収、循環、排泄…をつかさどる心臓は「植物的」という考え方で人体について唱えている書籍を見つけて、人間の中にも「植物性」があると確認できて、これまで自分が感覚的に進めてきたアプローチに自信が持てました。
鎌田:そもそも、植物も人間も意識していないだけで同じシステムを使っているし、みんな始まりは一緒なんだよね。地球が誕生してバクテリアが酸素をつくり始めて、その環境に順応していって生まれてきた訳だから。
渡邊:結局は、自分が生きやすくなるために作品をつくっているんです。僕は都市みたいに情報が多すぎる環境が苦手で、ふと急に思考できなくなってしまうことも多い。それを避けるためには、周りに溢れた表層的な情報じゃなくて、身体的で本質的な部分、つまり植物的な部分に頼りたいんだと分かってから、いろんなアプローチで研究しています。作品をつくる過程で、生き物との向き合い方や考え方を更新していくうちに、生きやすい自分にチューニングしていけるような実感があるんですよね。
渡邊 慎二郎/Shinjiro WATANABE|1995年愛知県生まれ。2020年東京藝術大学大学院博士課程在籍。人間本位の考え方から生き物としての精神性を獲得することを目的にしている。 人間の中にある植物性を引き出し、生き物になることを志向している。
渡邊:都市の中だと、電車の音や自動販売機の音、自動車の音……といったように、インフラの音しか聞こえない。それで「公共」というテーマに興味を持ったんですが、例えば公共空間で赤ちゃんが泣く声のように生き物の有機的な音がすると、怪訝な顔をする人が多い。こんな都市環境で生きることは息苦しいから、だから、街の中にスピーカーを設置して、植物が風で揺れると、植物の中で響いた音が街に流れ出るような作品をつくりました。普段は聞こえないものを聞こえるようにするという試みをインスタレーションとしてやってみたかったんです。
鎌田:過去の論文を漁っていると、騒音についての研究、例えば、駅前の音と森の中の音を聞かせた時に人間がどのような反応をするかという実験もあるよね。誰もが想像する通り、森の中の方が血圧が下がったりして、身体的にも精神的にも良い結果が出るんだけど、不思議なことに、デシベル数で比べると、騒音レベルは都市より夏の森の蝉の声の方がずっと高いんです。それでも人間が森の方に嫌悪感を抱かないのは、音の大きさじゃなくて、その音がどれだけ馴染みのあるものかで心理的な影響が決まるからなんだって。人類の歴史の中では都市化はここ数百年の話で、自然環境の中で生活してきた時間の方が長いから、やっぱり本質的には身体の感覚は変わってないんだよね。
渡邊:でも虫が苦手な人が多いですよね(笑)
鎌田:植物を家に置きたいけど虫は無理という人も多いよね(笑)。人間は本能的に自然を愛する「バイオフィリア」という性質があるっていう説がある一方で、「バイオフォビア」っていう考え方もあるんだって。それは、歴史の中で死んだ人が多いものほど嫌う傾向があるっていう考え方で。例によく上がるのが蛇で、それがDNAに刻まれていて、それを見ると嫌悪感を抱く本能があるみたいで、自然だから全て好きかいうとそうでもなさそうだね。
——最近興味のあるテーマはありますか?
渡邊:僕は山手線の緑の色に違和感を感じたんですよね。昔は木材でできていたのにいつの間にか完全な人工物になった都市を象徴するようにケミカルな緑だから。それを足がかりにして「植物を移動させること」が最近のテーマになりました。動かないものを動かすというアプローチで、2作品つくりました。ひとつは、山手線で植物を移動させる作品、もうひとつは、4mある棕櫚(シュロ)の木を台車に乗せて車道を歩くという作品です。それらをつくろうと思ったのは、どちらも「植物に対する感情移入を絶やさない」という目的を実現できると思ったからです。「人間」と「植物」の関係性を「静」と「動」として捉えた時に、人間から見ると通常時の植物は「静」だけど、人間が植物を持って電車に乗って移動することで植物が「静」から「動」に変化しますよね。人間自身も座席に座るので、「動」から「静」に変化していて、その2つが交互に交差することで、人間と植物が相互的に感情移入できるんじゃないかと思ったんですよね。
鎌田:私も植物を運ぶ人として参加させてもらったんだけど、都市をハックしている感覚で楽しめました(笑)
渡邊:ありがとうございます。人間のためだけに開発されたインフラにも他の生命を乗せられるという意味では、山手線の車両は人間も植物も存在できるテラリウム、ビバリウムとして捉えられます。今回は、良くも悪くも、都市における人間本位な部分に焦点をあててみたいという狙いがありました。もう1つの作品である棕櫚の木の運搬も、本来は木を自立させた状態で移動させたかったんですけど、そうすると5mの高さの電線に引っかかってしまうとか、台車の法律では3mまでのものしか移動させられないとか、植物の移動を阻むいくつもの人間本位のルールが登場して。植物は動かない「静」のものというバイアスがあるからこそ、人間本位の法律で阻まれながらも木が移動していく様子を、木にGoProを装着して植物目線で撮影するという作品にしました。
植物が人間にもたらす力
——植物を見ると癒されるといった効果は感覚的に理解できるのですが、それはどのような力だと考えますか?
鎌田:まさに今いる大学の研究室では、オフィスに植物があることで人が癒されたりストレスが軽減される理由を、フィジカル/メンタルの両面で計測するという研究をしています。観葉植物をインテリアとして置くことで仕事のやる気や職場の満足度、活力が上がったという結果は出ていて。でも最近はそのデータから単に植物を大量配置してメンテナンスは業者に任せればいいといった、安易で乱暴な空間づくりのスタンスも多く、課題を感じています。個人のデスクに自分で選んだものを置いて毎日世話をする方が、誰かに任せるよりずっと癒されるんです。
渡邊:植物を「物」として認識するか「生き物」として認識しているかの違いですよね。剪定したり、水をあげたり、自分が世話をすることで彼らは応えてくれますもんね。しおれたり色が変わったりするから変化を見て理解しようとできる。
鎌田:そう、変化が重要だと思う。現代の都市って変化しないことを良しとする前提があって、プロダクトも出来る限り劣化や破損をしないようにできているし、ハードはコンクリートのように変化しづらいもので構成されています。でも本当は、変化する生き物であることこそが人間と植物、自然、すべてに通じる大事な前提で、それらが何らかのインタラクティブな関係にあることが素晴らしいはず。だから、植物柄の何かとか、植物モチーフの何かじゃダメなんだと思う。私がつくっていた「Tanicushion®︎」はサボテンモチーフのクッションですが、これはまた違ったアプローチで。サボテンは南米大陸やアフリカ大陸のように直射日光が当たる場所で生きるためにああいう形をしていて、水を貯めやすかったり日光から身を守る機構を持っている植物で、室内では絶対に育てられなくて、環境に適応できずにいずれ死んでしまうの。だから、サボテンブームがちょうど来ていた時に、室内にサボテンは置けないから、クッションを飾って本物は外で育てましょうというメッセージを込めました。もちろん本物の代わりにはなれないから、セカンド的な役割だとは思っていて。やっぱり生き物の方がエネルギーをもらえるよね。
——COVID-19対策の外出自粛期間で、公園を散歩して植物に癒されたり、ベランダや庭で野菜や花を育て始める人が増えたような気もします。
鎌田:私にも「植物を育てたいんだけどどうしたらいい?」といった相談がすごく増えました。知り合いのお花屋さんもイベント用の花の発注は減ったけど、個人で植物を買う人は増えたと言ってたし、ハーブを売っているお店もいつもより混んでいた印象。出勤や飲み会がなくなって、心身ともに余裕ができたのかなと思います。
渡邊:選択肢が少ない方が生きやすいですよね。都市はやっぱり情報が多すぎるから、身体的感覚を使ってシンプルに生きたい。コロナ禍でそういった感覚を取り戻す人が増えたんだと思いますね。自分自身に目が向いて、自分は自分、他人は他人みたいな、個人が強くなっていく期間になった。
鎌田:今までは頭の中だけで生きるのに慣れすぎていて、自分の身体的感覚を使うことを失っていたけど、移動が制限されたり自由に動けなくなったから、初めてその素晴らしさに気づくタイミングだったんだろうね。
渡邊:僕は、植物に対しても自分に対しても負荷をかける意味で、水はけしない穴の空いていない花瓶に土を入れ、観葉植物を育てています。普通の水はけのある器で育てる場合は、2~3日に一度植物に合う頻度でタップリと水をあげるのだけど、水はけのない器だと、水をやりすぎると根腐れして、植物を助けようと思っても花瓶を割らないと取り出せなくなってしまう。だから、定期的に土や葉を触って状態を確認しつつ、ちょうどいい水の量を厳密に感じながら、ストイックなライフワークとして育てています。自分の身体を拡張をしている状態というか、ずっと神経を植物に注ぐんです。
渡邊氏の自宅にある植物たち。それぞれに対して別のシンクロ率で感情移入をしながら育てている。
“僕は植物に成りたい”
——渡邊さんにとっては、植物はパートナーではなく、自分の分身のような感覚ですか?
渡邊:そういう感覚はあります。最近は、観葉植物より街路樹の方が近いかなと思っていて。街路樹は、すぐ下には地面、周りにはアスファルトが固められていて、隔てられているように見えるが、地面の中では根を張り巡らせて周辺の街路樹と土壌を共有しあっている。アパートで壁に隔たれているが水道や電気、雑音を共有している感じに似ていて共感できる。
鎌田:植物って懐が深いよね。
渡邊:そう思います。あるキャベツの実験を思い出しました。キャベツって食べる部分と、本体の茎の部分がありますよね。切り離した後にそのキャベツの食べられる葉っぱの部分を切ると、本体の茎の方が反応するんですって。彼らは彼らなりの感性で生きていて、人間とは時間軸が違う状態で接している相手であって、人間と交差しつつも勝手にのびやかに生きている。そんな植物に僕はもっと依存したいし、植物に成りたい。光合成して酸素を出すのは無理かもしれないけど、そう思って制作をしていて、彼らに感情移入し続けながら身体をチューニングして、植物的な思考が得られたら嬉しいです。
都市に余白をつくり、愛と主体性を生む
——これからの都市はどうあるべきだと思いますか?
鎌田:最近ちょうど考えていたのは、もっと都市のコンクリートを剥がして、誰にも管理されない土地ができればいいなと思う。1m四方ぐらいでも良いから、人間がコントロールしない土地で、自由に生き物が育てる場所が増えたら、そこで小さくても生態系ができて循環が生まれる。今って公園も管理されすぎているよね。
渡邊:都市にはあまりに余白が少ないですよね。
鎌田:狭い東京に密集し過ぎているという問題もあるし、都市政策や経済合理性と結びつけすぎてしまう考え方のせい。最近は新宿公園がリニューアルされて、芝生エリアが綺麗になったりカフェができたと聞いて、良いなと思って行きました。そうしたら、芝生エリアに犬を入れてはいけない、あれもこれもダメっていう看板だらけで、しまいには、観賞用芝生エリアっていうのがあって、人間も入ることができなかったんです。養生中ならまだしも、目先の景観が綺麗であることだけじゃなく、もっと先のことまで深く考えてほしい。宮下公園だって、いつの間にか公園が商業施設になってしまって、散歩に行けなくなった犬や野良猫もいるんじゃないかな。
鎌田氏の自宅の庭。都内のマンションで10年かけて育てたそう。
——ビオトープのようなものがあれば良いのでしょうか?
鎌田:ビオトープも人が管理を加えているので、ただ土があって、誰でもご自由にどうぞっていう運用ができたらいいなと思います。あまりに人間が土に触れる機会がないし、未来の子どもたちも「土は汚い」っていうだけの認識になってしまう。この間の展示で、環境微生物の多様性に関する研究をしている研究者の方が来てくれました。彼はさまざまな環境をバクテリアの多様性で測っているんだけど、森の中はバクテリアの多様性レベルが高い一方で、都市のビルの中には極端にバクテリアの種類が少ないそうです。やっぱり多様性がものすごく乏しくて、そうやってウイルスや何かと戦える力もなくなっていくし、空間自体の免疫力が下がってしまう。それを取り戻すためには、生き物が自由に増える土が必要だと思うんです。
渡邊:僕は、個人経営の店が増えてくれたらいいなと思いますね。住む人がそれぞれの街に依存できるようになったら、余白が生まれると思うんです。企業や行政に全部任せている状態だと、ひとり1人の愛着は何にも育まれないから、再開発で量産された個性のない街だらけになってしまう。そうなると都市開発のルールで公園も管理されたりしてしまいますよね。だから、人が地元を守りたいという気持ちが生まれて、みんなの心に残る”シンボルツリー”みたいな植物が街を育む存在になるといいなと思います。「なんとなくこの木が好き」みたいな感情で十分で、そんな距離感で人間と植物が共に生きていけると、みんながハッピーになれるんじゃないかなと思います。
数億年前から存在していた生き物としての植物と、人の心を豊かにするインテリアやアートとして飾られる花や観葉植物。あまりに人間本位すぎた都市生活に違和感を感じた人から、自分の中で麻痺していた身体的感覚、すなわち人間の中の「植物性」に気づき、地球で暮らす「生き物」の一員としてシンプルに生き始めている。まずは社会のためではなく自分のために、近所の街路樹や花屋に並ぶ切花たち、職場に置かれたプラントに目を向けて、身の回りにいる静かな他者と話してみたい。
Photo: VICTOR NOMOTO
Text: REIKO ITABASHI