ひとりぼっちの手ざわりが聴こえる
「短歌を読みたいと思うのも書きたいと思うのも、孤独だから」ーーそう語る小島が紡ぎ出す歌は、物事を俯瞰的にとらえ定型に納めるという作業の持つ静けさを携えながら、内へ向かう眼差しが鋭く動的だ。そんな眼差しを持つことは、自分の足で立つことを要求する世界への、ちょっとした抵抗なのかもしれない。
「日常に絶え間ない感動がある幸せ」
2004年に第50回角川短歌賞を最年少タイ記録で受賞し、2007年の第1歌集『乱反射』では第8回現代短歌新人賞、第10回駿河梅花文学賞を受賞している歌人・小島なお。2020年4月に、およそ10年ぶりで第三歌集となる『展開図』を刊行したばかりの歌人の原点は、文学だった。星新一のショートショートの世界に引き込まれてから、本が大好きになった小島。中高時代には、谷崎潤一郎や源氏物語と出合う。
「学校で猥雑な写真集を見ていたら怒られますけど、谷崎潤一郎や源氏物語を読んでいても怒られない。中身がエロティックなのに、はたから見てばれないっていうのが自分にとっては刺激的な体験でした」
少女らしい好奇心を伴って文学に惹かれた小島は、言葉の魅力にも引き込まれた。歌人である母親や尊敬する師・高野公彦の歌集をきっかけに、自身も短歌を詠むように。大学を卒業してから4年間はIT企業に勤めたが、ある時、転機が訪れる。情報番組の短歌コーナーを担当しないかという話が舞い込んできたのだ。会社に両立を許されなかった小島は、どちらかを一生の仕事とするなら、と短歌を選んだ。こうして今や、言葉で表現をしながら生きている小島だが、人の持つ圧倒的な才能の前で、苦悩することもあるという。
「自分が尊敬している先輩が自分と同じ年代の時に出された歌集を読むと、そこには歴然たる差があったりして。それを自覚しつづけなければならないのは結構苦しい。逆に表裏一体ですが、いい歌に出会うと涙が出るくらい感動することがあって、そういうのが日常生活にずっとあるというのは幸せなことだと思います」
「新しい言葉が知っている感情を呼び起こす」
短歌における才能とはなんなのか。評価軸のひとつは、“言葉を操る能力”にある。
「自分の気持ちや感情をどういう言葉で解像していくかというところで、長い表現史のなかでいかに新しい飛躍の表現であるとか、斬新な言葉なのに知っている感情を呼び起こすとか、言葉のニュアンスや持っている手ざわりや質感をいかに自分のものにして形にできているかという力量は大きいように思う。その人の持っている詩的世界のオリジナリティというか」
“知らないのに、知っている”ーー小島の短歌を読んでいると、馴染みのない表現が自分の奥底に沈み込んだつかみどころのない感情の余韻を引っ張り出してくることがある。逆に、慣れ親しんだ言葉の羅列がとんでもない拡がりを見せてくれることもある。
“寂しさは胞子となって飛べる”のだ。一見遠くにある言葉の組み合わせが感情を具現化し、自分自身の“日常生活”に溶け込んでいく。
自分と折り合いをつけてくれる時計はどこに・・・抗えない力を持った空間にたったひとり放り出されたような、そこはかとない孤独感や無情感が漂う。
そんな小島の作品は、意外な場所から生まれる。iPhoneの「TatePad」という縦書きメモ帳アプリを使って短歌をつくっているというのだ。フリック入力で短歌を詠む・・・両側にある対照的な“時”が一同に会するさまが面白い。
「五七五七七の七七だけがぱっと思い浮かんで、フレーズで書き留めておいたり、読んだ本のなかのちょっとした単語が面白くて拾っていったり。ある程度メモをしておいて、最終的につくる時に集中して形にしていきます。平均すると1ヶ月30首くらい書いていますね。歌集をつくるときは、全部印刷して切って並べ替えたりしますが、いつもはこれ(アプリ)で完結させます」
短歌にとって、大事なのは縦書きであること。たしかに、横書きと縦書きでは、縦書きのほうが圧倒的に蓄積を感じられるだろう。横書きは流れていってしまったり、ぽろぽろと零れ落ちてしまいそうなイメージがある。
「短歌は、一見関係ない言葉も裏側では響き合っているという読み方をよくするんですけど、そういう読み方をするときに縦書きの方が圧倒的に感じやすいんです」
「短歌は自分のことを歌っているもの」
こうして生まれた小島の歌が詰まった、“生活”の奥ゆきを表すような『展開図』。前作からは10年ほどの月日が流れた。10年間とは、歌を詠むことにかんして満足のいかない時間を多く過ごした小島が、自分のなかである程度本当の思いや気持ちを伴った手ざわりのある言葉を短歌にでき始めていると実感し、それがまとまりを持つまでにかかった時間である。「多分あと1年経てばこの歌集も嫌になると思うんですけど」と言う小島は、自分の過去の短歌は“恥ずかしいもの”だと語る。
「短歌は基本的に自分のことを歌っているものだから、古いのは読みたくないですね。焼きたいくらいです(笑)。1ヶ月2ヶ月の単位で表現も少しずつ変わっていくし、好きな世界、歌いたい物事もどんどん変化する。だから1年なんて経った歌はもう目も当てられない。その時の自分も自分だ、と俯瞰して思えるのは、もっと自分が成長してゆるぎない自分の表現や世界を獲得できた時。まだ全然定まらないので、定まらないところから定まらないところを見るのがとても怖いなと思います」
「自分がここにあることはすごく寂しい」
小島が短歌を詠む/読むのは、“孤独”な自分のためだ。自身の思考や感性に深く潜り込んだ時に発生する短歌という反映が、各々の本当の孤独のかたちを浮き彫りにした上で、そのかたちをひっそりと肯定する。
「何かあって寂しいというわけではなく、自分がここにあることはすごく寂しいこと。自分が短歌をつくることによって自分の孤独もよく見えるし、書かれた短歌を読むことでその人の孤独もよく見える。短歌を通して心が共鳴するんです」
どんなに近くにいても、他者のことはわかり得ない。自分以外の“わからないものたち”との断絶は、孤独という名の、人肌ほどの温度でやわらかく穏やかな手ざわりを持った真実を連れてきて、自分自身の輪郭をつくってくれる。そうして初めて、他者との“繋がり”を少しだけ自分のなかに受け入れることができるのだ。孤独とは、自分自身でいることなのかもしれない。
「なんでそこに木が立っているんだろうとか、なんで今ここに自分がいるのだろうとか、つきつめていけばどんどんわからなくなることばかり。でも日常の中のひとつひとつの“謎”みたいなものが、人生の豊かさにもなっていると思うんです。そういうわからないものに少しでも触れていたいというか」
日常の謎と孤独。思考という課題を与えられた人間だけが感じ得る、特別な“生活”だ。それらは脳や心を持った時点で自然発生するもので、一生の伴侶だと小島は言う。
「何かに感動するっていうことは孤独ということ。心があるからこそ何かに特別に感じ入ったりするし、心に洞があるからそこが埋まる。感動するっていう経験が一度でもあれば、それに近いものはあるような気がします」
「私たちはまだ言葉を未開拓」
COVID‐19によって、コミュニケーションの取り方が限定されているいま。短歌の世界でも、歌会が一部オンライン化したり、大会が次々と中止になっている。また、年齢層の高い短歌の世界では、リテラシーの問題からZoomでのイベント開催が難しい場合もある。そのうえ、もともと歌人は旅する仕事だった。歌人ゆかりの地を訪れたり、各地の短歌を愛する人たちと交流することも多かったが、そんなこともいまはできずにいる。孤独感をより一層思い知らされるような世界のなかで、言葉のあり方はどう変化していくのか。
「コミュニケーションを取れなくなったことによって自分のなかに言葉が溜まっていくと思うので、自分でなにか表現をする、出したいという思いは高まると思う。そういう意味では言葉の需要は増えていると思います。SNSとかそういうシステムによって芸術や表現を皆が平等に享受できる時代になっていますし、言語への意識は全体的に高まっているような気がします」
言葉に限界はあるのだろうか。
「言葉の能力は無限にあって、でも私たちがまだ言葉を未開拓で、能力が追いついてないんだと思います。その時代その時代で私たちの言語表現の限界があって、それがどんどん更新されていっているのではないでしょうか。だからこそ、短歌も細々とではありますが1300年続いてきたのかなと」
人間よりも、言葉のほうがすごいのだ。言葉は深く速く、広大で、私たちは自分自身を理解しようとしつづけることでしか、いつの間にか果てまで逃がしてしまった言葉をもう一度見かけることすらできない。小島は今日も内側の解像度を高めるように短歌を詠んで、わからないものだらけの外側と少しずつ繋がっていくのだろう。
小島なお
1986年生まれ、東京都出身。青山学院大学文学部を卒業後、IT企業に4年間務めたのち、歌人に。父親は神経内科医、母親は歌人。2004年に『乱反射』50首にて、第50回角川短歌賞受賞(最年少タイ記録)。2007年の第1歌集『乱反射』で第8回現代短歌新人賞、第10回駿河梅花文学賞を受賞。歌会や講座を催すほか、TV出演や雑誌への連載などもしている。2020年4月、約10年ぶりとなる新作歌集『展開図』を刊行。一番好きな歌集は高野公彦著『汽水の光』、趣味は演劇・映画鑑賞、居合道など。
Photo: VICTOR NOMOTO
Text: RIO HOMMA