社会の歴史と個人史の間で
数多くある雑誌の中でも、異色な存在感を放つSTUDYという雑誌がある。ファッションをメインに取り上げると同時にミュージシャンなどのインタビューが圧倒的な情報量で収められ、振り幅の大きさに驚かされる。そんな他とは一線を画す、独自の世界観を打ち出す雑誌、STUDYの編集長である長畑宏明が語る、同誌に込められた美学とは。
「そこにしか見出せない文脈を提示する」
——STUDYは基本おひとりで作られているそうですが、そのスタイルは創刊時から変わらないのでしょうか?
長畑(以下、N):最新号は自分でロゴを作ったりもして、普通なら他に任せるようなところも全部自分でやってしまっています。写真家とスタイリストに関しては、準レギュラーとして毎号参加していただいている方がいますね。7号まで出してみて、STUDYを作る上でのチームっぽいものは自分の中で出来てきたかなという感じ。でも繋がりは緩いです。
——編集部として活動していると、ネタ、意見の交換をしたり、議論が起こったり、そういったところにも楽しさはあると思います。それと比較すると、ひとりで雑誌を作ることのどのようなところに長畑さんは意味をおいているのでしょうか?
N:STUDYの場合は、個人のアートフォームとしてやっている意識が強いですね。すべからく表現というのは自分のバックグラウンドを何かしらの形でプレゼンテーションしているはずだと考えています。最近の映画の多く、例えば『ミッドサマー』なんかも私小説的な監督自身の話で、だからこそ説得力を帯びるし、一つのアートの表現として成り立っている。そういう意味では僕が雑誌でやっていることとあまり変わらないと思っていて。自分が体験したことや出会った人を、一年単位、半年単位でまとめて提示するということをやっているだけ。なので、ある種自分の中のアーティストとしてのパーソナリティーを、雑誌を媒体として表現している感覚です。
従来のメディアは、今ある現象や世の中で起きていることをピックアップし、そこに何らかの文脈を見出して情報、つまり正史として提示する、という役割を担っていたはずで。それは正しい歴史を多数が総意として断定する行為。でも僕はそういうものを見つつ、正史ではなく個人史観みたいなものに興味があって。個人史観の表現をするためにメディアが今やるべきことは、そこにしか見出せない独自の文脈を提示することだと思っています。だから僕もファッションと音楽というカテゴリーを横断し、色んな人達に出てきてもらって、この並びが僕の中では一つの面白い文脈なんだ、ということを提示したいだけなんです。
「個人史観の表現としての雑誌」
——STUDYを拝見して、そこにどういう企画性があるのか、社会との接続がどうなされているのかというのが気になりながら読んでいました。個人史的な表現というのは、そういう予想を裏切るものです。
N:何かをみんなが思ったとしたら、それでいいんだっていう話をしたいだけなんですよね。要は、色んなものがブロックバスター化している。 SpotifyやApple Musicが出てきて、ものすごく人気のあるアーティストとそうでないアーティストの二極化が始まった。それは必然の結果だと考えています。なぜなら、全てのものが食べログ化して、ある程度評価がわかる状態で、評価が高いところにどんどん人が集まっているから。音楽で言えばPitchforkの点数が一時期はその指標になっていました。僕はPitchforkの評価が72点くらいの音楽が一番好きで、逆に85点くらいの音楽はあまり好きじゃない。映画も同じで、レビューサイトがかなり機能するようになって、点数が高ければ見に行く、みたいな話がある。僕自身は最近の映画だと、『パラサイト』と『マリッジ・ストーリー』には感情的にコミットできなかった経験があって……。逆に『ナイブズ・アウト』や、『9人の翻訳家』などの地味目の映画の方が僕の中では評価が高かった。こういう映画や音楽に対する個人的な評価と、世間の評価との乖離があって、そう考えると絶対的な評価軸としての世間なんて無いんじゃないかと感じる。
どういう要素が世間を形成しているのかを考えていくと、そこには個人史観の積み重ねしかない。今は個人史観なしに、なんとなく全体が醸成されている気がします。だから、個人が思ったことをそのまま肯定していく、ということをSTUDYでもしたくて。
最初の質問に立ち返ってしまうのですが、チームにできない、今のところしていないというのは3人か4人の合意を取ると、それは世間と変わらないものになってしまうから。みんなが納得感のある、誤差のないものになっていくはず。 そうなった場合、それを新しく打ち出す必要が自分の中にはない。だったら個人史観の表現としてのSTUDYをやっている方が行為として貴重なんじゃないかなと思っています。
——それは例えば、この人を取材しよう、と思ったら相談は誰にもせずにそのまま決定してしまうということですか?
N:そうですね。自分の中でいいかどうかわからない時点でオファーしてしまいます。それはバンド、スタイリスト、写真家でもそうなんですが、これはいい、と思ってオファーはしていないんです。わからないけどいいかもしれないし、悪いかもしれない、という状態で取材をして、そういう取材が一番楽しいんです。可能性から始まっていて、確信ではない。雑誌を作った後に僕自身1、2年後に読み返して、その人を取材してSTUDYで取り上げた意義をやっと確信できる感じがあります。
——おっしゃっていたアーティストを感覚的に選ばれてるという、感覚でやっている部分と、個人的な好き嫌いの関係性についてもう少し伺ってもよろしいですか?
N:好きではないものもたくさんありますが、STUDYという媒体があることでそこすらも繋げていける。雑誌を作っていると、自分が好きか嫌いかわからないものに対してコミットせざるをえないので。
個人的な好き嫌いでいうと、僕の好きなミュージシャンはポップのメジャーフィールドにいるアーティストが好きで、邦楽はほとんど聞かないんです。でもやっぱりSTUDYでは、意識して日本のミュージシャンをちゃんと取り上げるようにしています。STUDYというメディアの性格、立ち位置を考えたときに、ここで日本のミュージシャンを取り上げて言葉を残さない限り、世界のメディアの中に立ち位置がない。本当に好き嫌いでやるとしたら、僕はずっとLiam Gallagherを表紙にしていると思います。ファッションに関してもそうで、僕は古着しか着ないので。だから僕の個人的な好みの価値観には権威的なものもより入ってきてしまう。
——好きを超えた個人史があるということですね。STUDYという名前がついて、メディア化すると、その個人史自体が勝手に動き出すということでしょうか?
N:そうですね。個人の好き嫌いや正義に基づいて何かをジャッジすると、絶対に分断が起きてしまう。SNSの顛末みたいなところもそうだと思います。でも、みんながメディアを作れば、別の軸が複数できてきて、いくつかのパーソナリティーを自分の中で並行して持てると思うんですよね。そうすると、結構いろんなものがオッケーになってくる。個人的に好きではないタイプの人でも、STUDYの長畑宏明というパーソナリティーだとフラットに話が聞けて、ある部分までは納得できる。自分にしかできないちょっと変わった角度から話を聞き出せたりもする。だけどそれが本当の自分の個人的な好きになるかというと、そこは全然違う話で、やっぱり変えられないところもあります。
「日本に根づいた表現をしたい」
—— STUDYではミュージシャンなどの人たちも多く取り上げられています。今ミュージシャンがやっている音楽とファッションは乖離してきているなという印象があります。やっている音楽とは別に、ファッションでも自分が表現ができるようになってきているというか。その流れがSTUDYではより読者側、表現者でない人達にも浸透してきているような構成なのかなと思うのですが、そういったアーティストの取り上げ方は意識されているのでしょうか?
N:そこは意識的にやっていますね。根本にあるのは、日本の場合は音楽、ファッション、アートなどの文化が縦割りな印象があるということ。例えば、僕はメジャーでやっている邦楽バンドのファッションがダサいと前から感じていて。それは多分芸能や音楽に強いと言われるスタイリストがミュージシャンのイメージを勝手に決めて着せているからだろうと。逆にファッションエディトリアルに強いスタイリストが芸能や音楽のフィールドに関わることはあまりないとか。クリエイティブも縦割りが起こっているからそういうことが起こる。
音楽と服の関係性は、昔はもっと原理主義的だったはずで、ロックはこういうものでパンクはこういうものという区分が存在した。例えば、King Crimsonを聴いてない奴がKing CrimsonのTシャツを着るんじゃねえ、とか。僕はそういうのはどうでもいいことだと思う。だから原理主義的なところからは離れていたいというのが一つ。
もう一つは、きちんと内容がある文章がありつつ、それと同じレベルでファッションビジュアルがあるというのが僕の理想のメディアの形なんです。ファッションは反知性的なところが魅力でもあります。知性だけで組み上げられたスタイルよりも、なんとなくこっちの方がいいなっていう感性で選ばれたものが勝ってしまう場合がある。権威も何もかもをひっくり返す可能性がある。逆に音楽批評にそれは無い。基本的に網羅性、知識が重視されるものです。音楽批評は実力なんですが、ファッションに関しては実力がなくてもいいと僕は思っていて。着る人のセンスがよければいい。本来このセンスというところと、ロジックというところはそんなに相反する要素ではないはず。むしろその間の現象を取れるはずなのに、言語を使うか否かだけで全然違うものとみなされていて、なかなか一緒にならない。
僕はそれはくだらないと思っていて、それなら両方をレベルの高いものにした方がいいじゃないかと考えています。海外だと、そういうメディアはいくつかあるんですよね。特にインディペンデント誌、例えば『032c』みたいなメディアはものすごいレベルの高いファッションビジュアルに、ものすごく鋭い社会批評が入ってくる。日本ではファッションがちょっとおバカなコンテンツだと見なされているので、そこを繋げたかったというのが根本にあります。
——STUDYで取り上げるブランドとの関係性や、誌面で使われる服のブランドを選ぶ上で意識されているのはどういった点ですか?
N:個人的にシンパシーを感じているブランドがメインで、その中でも日本のパーソナリティーをちゃんと表現しているブランドを使うことを意識しています。
例えばアートでもそうですが、海外から見た日本っぽさと日本人がこれは日本っぽいなと感じるものはまたちょっと違っている気がしていて。日本の雑誌にしかできないことは、日本のパーソナリティーを持っているブランドを自分たちなりに料理して、外に打ち出すということ。なのでSTUDYの場合はできるだけドメスティックなブランドを使ってやっていきたいと思っています。
——日本というものがコンセプトとして出てくるのが、大事なところだと思いました。ローカリティ、自分たちが生きている世界、日本というところはどう捉えていますか?
N:まず前提として、国という概念がどんどん薄れている。国籍が意識されない。その上で日本は世界の中ではまたちょっと変わった立ち位置にいると捉えています。10年代に日本はその特殊なパーソナリティーを一回喪失しかけて、世界の中での立ち位置がちょっと揺らぎ始めた時代になっている。日本はとにかく自分たちのことをレジュメ化してこなかったし、内部でフィードバックをしてこなかった。この20年間に起こったことをちゃんと総括して、それに対する次のアクションを決める、そういう流れはいつまでたっても無いような気がします。
日本らしさをどう打ち出すかということも、いろんなところで議論になったけれど、各々が日本のよさのイメージを持っている中で、統一の見解は取れていない。今の日本で起きていることと、そこから見える日本らしさを見つめたい、というのは個人的な課題としてあります。そうしないと、自分の立ち位置がグラグラ揺らついたままで、他のものを受け入れられないから。少なくとも僕らが今を生きて、実際目にしてきたものを、なんなんだろうと見つめることは大事だと思っています。
——ちゃんとそういう部分を入れていかないと、個人史としてのブレが生じてしまうから入れよう、ということなのでしょうか?
N:そこは意識的ですね。入れる建物や色合いなどは全部意識しています。ロケは日本の地方などで行っていて、その地方もポジティブな面だけではなくて。7号の最初の池のシューティングは山中湖で行ったもので。いわゆる観光地なんですが、うまく地方創生できていないような場所で、全然人もいないし店もない。ロケーションに関しては、いいロケーションを選ぶというよりは、よりリアルに日本を映し出せるロケーションを選ぶようにしています。僕はちゃんとそういう場所も日本として写真として残し、現状をちゃんと記録しておきたかった。東京の雑多な渋谷などでGUCCIがシューティングをやって、これは日本ぽいよねというのは、海外から見たときのわかりやすいジャポニズム。僕は海外から見たときのわかりやすいジャポニズムより、より日本に根づいた表現をしたいんです。
「光の当たらない部分に愛しさを見出す」
——STUDYにおけるファッションという要素は、ファンタジーとして入れようという意図なのでしょうか。そこにファッションが入ることによってどう見せる意図があるのでしょうか?
N:見た人が不思議な気持ちになるようにしたいなと思っています。自分が見た光景を再現しているつもりではあるので、ファンタジーではない。僕は今、笹塚に住んでいるんですが、近くに甲州街道があって、そこは交通量も多いし通りも汚くて最悪なんです。だから好きなんですけど。笹塚のあたりは文化服装学院の学生などが多いので、結構派手な格好をしている子もいて。例えばそういう子がマンションから出てきて、甲州街道の排気ガスまみれの通りを歩いている姿は、現実だけど一種のファンタジーでもある。僕は素敵じゃない場所に素敵なファッションがあり得るのが日本らしさだと思っているので、その光景を再現しています。なるべく日本の光の当たらない部分も見つめていかないといけないだろうし、そこに愛おしさを見いだすのは、自分たちにしかできないことじゃないかな。
——お話を伺って、“美学”がSTUDYにおける一つのキーワードなんだと感じました。
N:そう言われると、たしかに僕が一番重んじているのは美学なのかもしれません。うん、たぶんそうですね。
長畑宏明
1987年、大阪府生まれの編集者。上智大学在学中には音楽ライターとしての活動も。大学卒業後はファッションウェブサービスの会社に入社。その後フリーの編集者として独立し、2014年にインディペンデントファッション誌「STUDY」を創刊。雑誌をアートフォームとして独自の美学を発信しつづけている。
Photo: VICTOR NOMOTO
Text: MASAKI MIYAHARA