錯覚に潜むよろこびを求めて

「遊び」をテーマにサルやチンパンジーの生態を調査する研究者・島田将喜。目的はなく、自発性があるーーそんな「遊び」をヒト以外の動物たちはいかに行なっているのだろうか。動物界からアプローチするなかで見えてくるヒト特有の「遊び」とはなんなのか。ヒトが集まれない状況下、いまいちど「遊び」の意味とこれからについて探る。

「我々」と「彼ら」を分ける人間

——そもそも「遊び」ということばの定義ってなんなのでしょうか?

島田(以下、S):人間の「遊び」を研究する分野では、規則のあるルールオリエンテッドなものを「遊び」とすることが多いです。ルールは複数の個体が共有しており、遊び方に関する共有知識がないとできない。しかし、ルールの共有にだけ限定してしまうと遊びの他の多様な側面が見逃されてしまいます。そこで、何のためにやっているか目的がはっきりしない、自発的にやっている、リラックスした状態で繰り返し起こっている、というのが重要な「遊び」の基準と考えられています。

——例えばお祭りなどのイベントとは、集団で行なう「遊び」と定義できるような気がするのですが、サルの社会において、そういうものは存在するのでしょうか?

S:ないんじゃないかと思います。人でしか起こらない「遊び」のひとつに、集団間でおこる協力と敵対を同時に行うタイプの「遊び」(チーム対チーム)があります。これは動物界のなかではきわめてレア。ヒトとヒト以外の決定的な違いと言えますね。戦争っぽいものはあって、チンパンジーは集団対集団で殺し合いをするんですね。ですがその場合でも基本的には1対他のリンチに持ち込んで1頭ずつ消していく。協力しているもの同士がぶつかっているわけではないんです。

——協力と敵対のバランスがとれるのが“人間らしさ”なんですかね。

S:「我々」と「彼ら」を分けていくという作業ができて、全員で共有できる。人間が特殊な認知を獲得しているなと思います。動物が協力するのは、その時協力しないと相手にやられてしまうから。困っているから助ける、ではなく、目的が共有されているだけです。人間の共感性や助け合いは異質なもので、子供でさえそうですよね。子供って絶対人に何かあげたくなる。そんなことチンパンジーは絶対しない。余裕とかと関係なく、自分の所有しているものを他人に何もなくてもあげるっていうのは「ヒューマン」ですよね。

動物だってよく「遊ぶ」

——島田さんが「遊び」という研究テーマにいきついた経緯を教えてください。

S:京大の理学部の人類進化論研究室というところにいて、卒業研究のテーマを探していたんです。僕はほとんど大学に行っていなくて、麻雀が大好きで博打ばっかりやっていたんですけど(笑)「遊び」って錯覚で、現実ではないのにそのなかですごくイキイキできる。麻薬みたいな作用があって、これはいったいなんなんだろうということに関心がありました。もうひとつは旅行が好きで、言葉が通じなくても人と人とがわかりあえるようなコミュニケーションの取り方にも「遊び」の要素を見出して、このテーマで研究をしていますね。

——「遊び」へのアプローチを人間ではないところからしていくのはユニークですよね。

S:よく「遊ぶのって人間だけですよね?」と言われるのですが、じつはペットを飼っている人なら誰でも、動物がよく「遊ぶ」ということは知っている。人間の「遊び」と動物の「遊び」、何が同じで何が違うのかっていうことを、研究者としては明らかにしていきたいですね。

——普段行なっているフィールドワークとはどのようなものなのでしょうか?

S:宮城県の金華山で20年近くニホンザルの調査をし続けています。国外ではタンザニアでチンパンジーを対象とした調査もしています。ですが今はCOVID‐19の影響で、フィールドワークができていません。人に近い霊長類ですから、COVID‐19に対しても感受性があるんです。彼らから移される、移す場合があるということですね。

——COVID-19の影響をかなり受けているわけですね。

S:そうですね。本来は、研究対象の遊動域、つまりサルやチンパンジーが日常暮らしている環境のなかにベースキャンプをつくって泊まり込みながら調査をしています。彼らが人間を恐れてしまうようだと逃げてしまって観察にならないので、僕らを無視するまで慣らします。僕らが彼らにとって無害というのは、世代を超えて「社会的学習」によって受け継がれるので、生まれたばかりの赤ちゃんは警戒するのですが、お母さんたちがへっちゃらなので平気になっていくんですね。

島田がニホンザルの遊びについての論文を寄稿している『The Japanese Macaques』。群れで暮らすニホンザルの様子も収められていた。

サル界に見られる「遊び」的行動

——フィールドワークを行なうなかで見つけた、サルの「遊び」とはどのようなものなのでしょうか?

S:僕が観察したのは2000年だったのですが、サルだと「枝引きずり遊び」なんかが代表的ですね。京都市嵐山に餌付けされたニホンザルの群れが住んでいますが、3~4歳くらいの20~30頭の子供たちが、ラグビーのような「遊び」をするんです。人間が捨てたごみや、園内にたくさん落ちている木の枝をサルたちが拾い上げて、あるサルが持っていると残りのサルたちがそれをめがけて追いかけて来る。ラグビーボールをめぐって全員が取り合いをしているみたいな状態ですね。持ち運び可能な森のなかで見つかるありとあらゆる物がターゲットになり得るのですが、唯一例外があって、それは貴重な食べ物、つまりカロリーの高い食べ物。ターゲットになる物は、サルの厳格な上下関係のなかで、順位が高いサルから奪い取っても喧嘩にならない物だけなんです。これは、遊び中はサル同士の上下関係を無視しようというルールが共有されているということを意味します。

——本気で取り合っているわけではないということが社会構造から明確に読み取れるということですよね。

S:そうですね。なぜ言い切れるかというと、ターゲットになった物は最終的には放置されるんですよ。大体遊び終わった物を僕が回収して、長さや重さを測っています(笑)ということは、遊びの時だけターゲットになんらかの価値づけをしているんですね。一時的に遊んでいるという状況があって、初めて価値が生まれてくる。

——プレイ中だけアイテムに価値が生まれる、というところはまさにゲームですね。2個体間での「遊び」もあるのでしょうか?

S:とても「遊び」的な珍しい行動をチンパンジーに見たことがあります。同じ年くらいのメス同士が出会いがしらに発情状態をチェックして、1匹のメスがマウントポジションを取って腰を動かしたんです。まずチンパンジーでは社会的な文脈で、レズビアン的な行動はレアなんですね。そしてこれを「遊び」と仮定すると面白いのは、腰を動かしている方のチンパンジーはオスの役割を演じただけということ。自分が性的に興奮できるわけでもないし、将来に役立つわけでもないんです。何のためにやっているかわからない、まさに「遊び」の行動です。

放っておくと「遊び」が生まれる

——「世界中の子供が鬼ごっこをするのはなぜか」という論考のなかで、「ゆとりがある集団から遊びが生まれた」という趣旨のことを書かれていました。野生動物における「ゆとり」とはなんですか?

S:動物界でも人間界でも「食うに困らない」「安全性が確保されている」「友達相手に困らない」。この条件がそろえば、「ゆとり」が生まれると考えています。

——ヒトの場合、例えばヒップホップなどのカルチャーを考えると、「ゆとり」というよりも困窮した状況から新しい「遊び」的な何かが生まれるという気がしています。その場合のメカニズムについてはどう思いますか?

S:「遊び」という言葉自体にはスキマという意味もある。そこに「遊び」があるから窓が空けられる、という風に。自由に動くことのできる空間があることを見出してそこに新たに自分たちなりのルールを持ち込むというのは「遊び」的な操作だと思います。「そこでしか遊べない」「そういう状況じゃないとできない」という抑圧された環境から、カルチャーが生まれる所以ですね。具体的な例として、タンザニアの子供はオトナ以上に労働力とされていて、水を運んだり牛を一日中追ったりしている。彼らは慣れてくると時間的なゆとりを見つけて、その場で何ができるか考えるんです。その結果、牛が水場に入ると少し時間ができるので、川の泥をかきまぜて精巧な粘土細工をする。そういう遊びの発明・発見はヒト的ですね。

——今はあまり人と会えない状況で「ゆとり」も感じられない世の中ですが、そんななかでもどういうところに注目すると「遊び」はつくれるのでしょうか?

S:ヒトの「遊び」はかなり大人数でできる。それはなぜかというと、全員が接触しないで済んでいるから。人間はもともと距離、つまりソーシャルディスタンスを取って遊ぶのがうまいんです。そのためには言語の進化が欠かせない。スキマを見つけて不自由ななかにも自由を見つければ、ルールを設けてみんなで共有しようみたいなことができますから。そういう遊びを発見するのはヒトは得意なので、あまり心配していませんね。新しい遊び方を見つけるというよりは放っておくと「遊び」が生まれていくんだと思います。


Photo: VICTOR NOMOTO
Text: RIO HOMMA